2020年10月26日の菅首相による国会での所信表明演説で、2050年カーボンニュートラル宣言がなされた。その実現に向けて、日本でも炭素税や排出量取引制度といった、カーボンプライシング政策が前向きに検討されるようになった。今月より、京都大学大学院経済学研究科教授の諸富徹氏が、カーボンプライシングについて解説する。
カーボンプライシングについて考える(1)
カーボンプライシング(Carbon Pricing:炭素の価格付け)が、にわかに脚光を浴びるようになった。
このタイミングをとらえて、カーボンプライシングについて考える連載を開始できるのは光栄である。本連載では、そもそもカーボンプライシングとは何か、というところから始まって、世界および日本におけるカーボンプライシング導入事例や導入論議の動向、それらをめぐる学術的研究の最先端に至るまで、読者の皆様にカーボンプライシングを考えるための材料を提供したいと思っている。
ところで、日本でカーボンプライシングをめぐる議論が大きく注目されるきっかけとなったのは、菅首相が2020年10月26日の所信表明演説で行った「カーボンニュートラル宣言」、そして同年12月21日に梶山経済産業相と小泉環境相に対して行った、カーボンプライシング導入の検討指示であった。
これを受けて経済産業省は、「世界全体でのカーボンニュートラル実現のための経済的手法等のあり方に関する研究会」*1を立ち上げ、本稿執筆時点ですでに3回の会合を開催、夏頃までには中間整理、年内には一定の方向性の取りまとめ、との方針を示している。
これに対して環境省は、すでに中央環境審議会地球環境部会の下に「カーボンプライシングの活用に関する小委員会」*2を設置、いったん中断となっていた議論を再開、すでに3回の会合を開催した。ちなみに筆者も、環境省の小委員会に参画している。
*1: 本研究会の開催実績および資料についてはこちらのURLを参照。
*2: 本小委員会の開催実績および資料についてはこちらのURLを参照。
カーボンプライシングの導入論議が日本で盛り上がるのは、今回が初めてではない。
2008年~10年にも、排出量取引制度を中心としてカーボンプライシングの導入論議が大きく盛り上がった時期があった。
筆者も欧州排出量取引制度(EU ETS)の研究に基づいて具体的な制度設計提案を行い(諸富・鮎川 2007;諸富・山岸 2010)、環境省の中央環境審議会に設置された「国内排出量取引制度小委員会」にも参画した。
だが、排出量取引制度に対する産業界の拒否感はきわめて強いものがあった。筆者も産業界代表の方々と様々な場で何度も議論したが、平行線のままであった。
とりわけ産業界の方々が懸念されていたのが、(1)排出総量のコントロールを通じて事実上、政府が製造業の生産量をコントロールすることにならないかという点、(2)排出量取引がもたらす費用上昇とそれが産業国際競争力に及ぼす負の影響、そして、(3)排出量取引市場における価格乱高下の恐れや投機的取引による市場の攪乱、といった点であった。
当時の民主党政権がその導入を謳っていた3つの気候変動政策手段のうち、炭素税(「地球温暖化対策税」)と再生可能エネルギー固定価格買取制度(FIT)は導入されたものの、排出量取引制度の導入は、ついに断念に至った。
これに追い打ちをかけるように、2011年の福島第一原発事故はカーボンプライシングの議論を完全に鎮静化させる効果をもった。
というのは事故により原発が信頼性を失い、新しい規制基準を満たさない限り再稼働は不可能となったが、その空いた穴を火力発電で埋めなければならなくなったからである。原発の再稼働が低迷する一方、再エネの伸びがまだ低い段階では、CO2の排出に目をつぶっても火力発電に頑張ってもらうしかない、というわけである。
こうした事情により、「脱炭素」をめぐる議論は日本では少なくとも2010年代前半の間、封印されることになった。これが少なくとも5年間、あるいはそれ以上の期間、日本が気候変動政策で世界から遅れをとる大きな要因となった。
こうした状況をようやく打破したのが、2015年のパリ協定の成立である。
国際的に気候変動問題への危機意識がさらに深まり、破局的な気候変動を避けるには、産業革命以来の全球的な平均気温上昇を1.5℃に抑えなければならないとされ、少なくとも先進国は2050年までに脱炭素(あるいは「気候中立」)を達成する必要があるという認識が国際的に広がった。
これを受けて日本では、環境省が2016年7月に「長期低炭素ビジョン小委員会」を立ち上げ、長期的視点で日本の脱炭素社会のあり方を議論し始めた。
その土台の上に学識経験者を中心とする「カーボンプライシングのあり方に関する検討会」(現在の「カーボンプライシング小委」の前身)が設けられ、2017年6月よりカーボンプライシングの検討がようやく開始された。
ところが経済産業省は、環境省の長期低炭素ビジョン小委員会とほぼ並行して開催した「長期地球温暖化対策プラットフォーム」の「国内投資拡大タスクフォース」最終整理(2017年4月)において、「直ちにカーボンプライシングを導入する地合いにはない」と結論づけ、カーボンプライシング導入に反対した。
このため政府として一致してカーボンプライシング導入の方針とはならず、カーボンプライシング導入論議は2019年夏の時点でいったん、停滞してしまう。
こうした局面を大きく転換し、カーボンプライシング導入に向けた議論に推進力を与えたのが、上述の菅首相による指示である。気候変動政策の前進にとって、いかに首相の指導力が重要かを示す象徴的な事例だといえよう。
以上、ここまでカーボンプライシングを特段、定義せずに日本のカーボンプライシング導入をめぐる議論の経緯を説明してきた。そこで最後に、改めてカーボンプライシングとは何かを明確にして、連載の次回以降につなげたい。
カーボンプライシングは、これまで無料で排出することが許されていたCO2など温室効果ガスの排出に価格づけを行うことで、温室効果ガスを多く排出する者はより多く費用を負担し、逆に、その削減に努力する者は費用負担が軽くなる仕組みの導入を通じて、温室効果ガス排出削減に向けた公平で、効率的な経済的インセンティブを付与することを目的としている。
これは、基本的には炭素税(Carbon Tax)か排出量取引制度(Emissions Trading)を通じて実現される。
そこで次回は環境税、次々回は排出量取引制度について、その導入事例とともに基本的な論点の整理を行うことにしよう。
参考文献
諸富徹・鮎川ゆりか(2007),『脱炭素社会と排出量取引―国内排出量取引を中心としたポリシー・ミックス提案』日本評論社.
諸富徹・山岸尚之(2010),『脱炭素社会とポリシーミックス―排出量取引制度とそれを補完する政策手段の提案』日本評論社.
エネルギーの最新記事