激動する欧州エネルギー市場・最前線からの報告 第28回
本コラムの第25回で、ドイツの新しい水素戦略を取り上げたが、その後、EU全体での水素戦略も公表された。EUの戦略は、ドイツ単独での戦略とは何を共有し、何が異なっているのだろうか。今回は、このEUの水素エネルギー戦略を、ドイツ在住のジャーナリスト、熊谷徹氏が詳しくお伝えする。
再エネ電力による水素が主軸
日本では水素エネルギーの実用化に関する研究が盛んだが、欧州にもようやく水素時代が到来する。
第25回でお伝えしたように、ドイツ政府は2020年6月10日に国家水素エネルギー戦略を閣議決定し、「水素エネルギーの実用化について、世界のリーダー国になる」という目標を打ち出した。
これに次いで欧州連合(EU)は、メルケル政権の発表から約1ヶ月後の7月8日に「欧州の気候中立性を達成するための水素エネルギー戦略(EU Hydrogen Strategy)」を公表した。
EUの構想はドイツよりもさらにスケールが大きく、ドイツ政府の戦略よりもさらに踏み込んだ部分もある。
両者に共通するのは、「2050年に二酸化炭素(CO2)排出量を正味ゼロにするという目標を達成するには、製造業・交通・暖房のエネルギー源を化石燃料から、再生可能エネルギー電力によるグリーン水素に転換しなくてはならない。水素エネルギーへの巨額の投資は、コロナ危機で打撃を受けた欧州経済を復興させるという目的にも貢献する」という主張だ。
グリーン水素は、脱炭素化の立役者
EUはドイツ同様に、太陽光や風力など自然エネルギーから作られるグリーン水素(緑の水素)を最も重視している。この水素は、再生可能エネルギーによる電力を使って水を電気分解することで製造される。水素は燃えてもCO2を出さない。つまり温室効果ガス削減の鍵となるのは、グリーン水素である。EUはこの水素を「クリーンな水素」または「再生可能な水素」と呼んでいる。本稿では用語を統一するためにドイツや日本と同じくグリーン水素という言葉を使う。
ドイツ政府は、水素を製造方法によって4種類に分類している(第25回参照)。 これに対し、EUは、水素関連エネルギーを次のように分類している。
EUは水素戦略の中で、「欧州経済の脱炭素化は、グリーン水素(つまり再生可能な水素)の実用化を支援することによってのみ可能だ」と断定している。
EUの提言書は「今回の戦略は、欧州でのグリーン水素の製造に拍車をかける。水素は燃料としてだけではなく、電力の蓄積手段としても利用できるので、製造業界、交通部門、エネルギー業界、建物の暖房からの温室効果ガスの排出量を大幅に減らすことに貢献する」と説明する。
余剰電力の蓄積に使われるパワー・トゥー・ガス(P2G)技術
欧州では再生可能エネルギーの発電比率が増えるにつれ、余剰電力の蓄積が重要なテーマとなっている。現在ドイツでは、北部で強い風が吹いて風力発電装置によって大量の電力が作られても、南部に送る高圧送電線が不足しているので、再生可能エネルギーによる電力が余る状態が時々起きている。将来こうした電力を水素に変えれば、蓄積することが可能になる。逆に電力が不足した時には、水素を電力に変えて供給する。この技術はパワー・トゥー・ガス(P2G)と呼ばれ、ドイツの電力会社やガス会社が実証実験を進めている。
EUは、コロナ危機から欧州を復興させるための「グリーン・リカバリー」計画の中で、「水素エネルギーへの投資に高い優先順位を与えるべきだ」と強調している。そして「水素の実用化プロジェクトは、経済成長と雇用の創出につながる」として、欧州を水素エネルギーについて世界のリーダーにすることを狙っている。
製造業と交通部門での水素実用化がポイント
EUの水素戦略は、3段階に分けて実行される。
今年始まる第1段階には、EU域内で電気分解施設の構築を始めて、4年間で少なくとも6GWの水素製造キャパシティーを生み出す。これは原子炉6基分のエネルギーである。ちなみに現在EU域内の水素の製造能力は1GWにすぎない。しかも現在製鉄業界や化学業界で使われている水素の大半は天然ガスから作られており、生成過程でCO2を排出する。ドイツ式に言えば、グレー水素だ。
したがってEUは、今後4年間で水素の製造方法をグレーからグリーンに切り替えつつ、水素の製造能力を6倍に増やさなくてはならないのだ。EUは電気分解施設の増設によって、2024年までに、100万トンのグリーン水素を製造できる体制を整える。
さらに第2段階の2025年から2030年には、欧州のエネルギー供給体制の中に水素の地位を確立する。欧州は2030年には40GWの水素製造キャパシティーを持ち、1,000万トンのグリーン水素を製造できる。
製鉄業や化学工業などの製造業界、さらに重量が大きいトラック、バス、船舶、鉄道、航空機のエネルギー源を化石燃料から100%電力に変えることは、技術的に困難である。これらの分野では、電力業界に比べて脱炭素化が遅れている。EUは第3段階つまり2030年以降は、「水素を使わなければCO2を減らすのが難しい全ての領域で水素を使う」という目標を掲げている。
EUはドイツよりもCCS(Carbon Capture Storage)に期待
またEUは、「過渡期には(火力発電の電気を利用した)CO2が少ない水素を使用し、発電過程で排出されるCO2を分離貯留することも視野に入れる」と述べている。EUはこのためにCO2の分離貯留技術つまりCCS(Carbon Capture Storage)を振興する方針だ。これはEUの方針とドイツの戦略が異なる点だ。
ドイツでは、CCSの実用化の目途は立っていない。この国ではスウェーデンの国営電力会社バッテンフォールのドイツ子会社などが、CCS発電所を試験的に運用したことがあったが、コストが高く経済性を確保することができなかった。さらに、農民らが「地中に貯留したCO2が大気中に放出されて、農作物や家畜に悪影響を及ぼす」として、CCSに対する反対運動を展開した。このため、現在ドイツではCCSの実用計画は暗礁に乗り上げている。
さらにドイツ政府は、自動車燃料の中に水素を使った合成燃料の最低使用比率を義務付けることに乗り気ではないが、EUは水素からの合成燃料の使用の義務付けに積極的である。現在多くのEU加盟国が、化石燃料に対するエネルギー税の免除などを通じて補助金を与えている。将来EUは、こうした化石燃料に対する直接・間接的な補助金を禁止する方針だ。
水素実用化への天文学的な投資
EUの水素戦略で驚かされるのは、投資額の莫大さだ。EUは、「2050年までにグリーン水素への投資額の累計は1,800億ユーロ~4,700億ユーロ(21兆6,000億円~56兆4,000億円・1ユーロ=120円換算)、CO2が少ない化石燃料からの水素への投資額は30億ユーロ~180億ユーロ(3,600億円~2兆1,600億円)になる」と推計している。
このためEUは「グリーン水素を実用化するための投資は、欧州経済を成長するための原動力となる。その意味で、コロナ危機からの復興にとっても重要な意味を持っている」と主張している。
ドイツとEUは、中長期的に世界のグリーン水素市場が急激に拡大すると予想している。
彼らが重視するグリーン水素の製造量を増やすには、オフショア風力発電など再生可能エネルギーの拡大が不可欠である。ドイツとEUの水素戦略が、欧州の再生可能エネルギー業界にとって追い風となることは確実である。各国の電力会社やガス会社は、水素時代の到来に備えて、電気分解施設の建設プロジェクトなどに乗り出す準備を始めている。