激動する欧州エネルギー市場・最前線からの報告 第11回
ドイツ政府が2019年10月9日に交通や建物からのCO2にカーボンプライシングを初めて適用する「気候保護法案」を閣議決定したことは前回お伝えした。だがこの法案については、学界や環境保護政党・緑の党などから「CO2削減目標を達成するには不十分だ」という批判が相次いでいる。ドイツ在住のジャーナリスト、熊谷徹氏が背景を詳しく解説する。
交通と建築に初めて排出権取引を導入へ
この気候保護法案をもう一度見てみよう。同法案は、これまでエネルギー業界や産業界に比べると温室効果ガス排出量の削減が進んでいなかった交通部門と建物の暖房に重点を置いており、同国は初めてCO2の排出権取引に踏み切ることになる。
具体的には車のガソリンや軽油、建物の暖房用の灯油など化石燃料を販売する企業に対し、2021年から2025年までCO2排出権証書の購入を義務づける。政府はその価格を初年度に1トンあたり10ユーロ(1,200円・1ユーロ=120円換算)に設定して毎年引き上げ、4年後には35ユーロ(4,200円)とする*1。
2026年以降は政府が毎年の排出量の上限を設定し、その量を毎年減らす。企業は国内の排出権取引市場での入札により、排出権証書を購入する。つまり2026年からは、交通と建物部門のCO2価格が、需要と供給という市場メカニズムで決められるのだ。ただし政府は最低価格を35ユーロ、最高価格を60ユーロに設定する。
EUはエネルギー業界と製造業界については、2005年からCO2排出権取引を実施している(この制度をEU•ETSと呼ぶ)。ドイツ政府は国内で開始する交通・建物に関する排出権取引をEU全体に拡大するよう、欧州委員会に働きかける。
暖房関連について、メルケル政権は、建物の密閉性を高めて暖房効率を改善するための費用について、課税対象額からの控除を始める。ドイツには19世紀末から20世紀初頭にかけて建てられたアパートが多い。これらの建物の中には、窓などの密閉性が悪い建物も少なくない。
また灯油を使う暖房装置を再エネによる熱を使う暖房装置などに更新するための費用も、政府が40%まで補助する。2026年以降は、灯油を使った暖房装置の新設は禁止される。
交通関連では、国内で移動する際に飛行機ではなく列車を使う市民を増やすために、列車の切符の付加価値税を19%から7%に引き下げる。逆に国内便の航空運賃を新税により割高にする。
さらにガソリン代や灯油代の価格上昇が市民の負担を増加させることに配慮して、電力料金に加算されている再生可能エネルギー賦課金を減らしたり、灯油の暖房設備を再生可能エネルギーやガスを使った暖房設備に更新する際の費用を最高40%まで負担する方針だ。
政府は一連の施策のために、少なくとも540億ユーロ(6兆4,800億円)の資金を投入することにしている。
気候学者からは「CO2価格が低すぎる」と批判
だがメルケル政権が発表した削減策に対しては、地球温暖化問題を研究している学者や野党から「不十分」という批判が集中した。気候学者の間では「この内容では、ドイツは2030年までにCO2排出量を55%削減するという目標を達成できない」という意見が有力だ。
ポツダム気候影響研究所のオットマー・エーデンホーファー所長は、政府が発表した法案を「勇気のなさを示す文書だ」と厳しく批判した。同氏は、「メルケル政権は、十分に踏み込まなかった。カーボンプライシング開始時の10ユーロという価格は余りにも低すぎる。CO2価格を10ユーロにしても、1リッターあたりのガソリン価格は3セントしか増えない。本来は50ユーロから始めるべきだった」と厳しく批判している*2。
*2:https://taz.de/Ergebnisse-aus-dem-Klimakabinett/!5627718/
現在EU•ETSにおける1トンあたりのCO2価格は約30ユーロ。メルケル政権が提案した初年度のCO2価格はそのわずか3分の1だ。ポツダム気候影響研究所は、「2030年までにCO2排出量を90年比で55%減らすには、最終的なCO2価格を少なくとも70ユーロ、理想的には130ユーロにするべきだ」という試算を発表している。エーデンホーファー所長は、これまでメルケル政権に地球温暖化問題についてアドバイスを行ってきただけに、政府が初年度のCO2価格を10ユーロと極めて低く設定したことを、意外に感じているようだ。
比較的政府に近い立場にあるドイツの環境シンクタンク「アゴラ・エネルギーヴェンデ(Agora Energiewende)」のパトリック・グライヒェン所長も「気候保護法案が提案したCO2価格を見た時、悪い冗談かと思った。この法案は、びっくりするほど弱々しい内容だ。1トンあたり10ユーロという低い初年度価格には、企業や消費者に対し、化石燃料の使用を減らさせるという効果がほとんどない。これでは燃料価格が大きく上昇しないので、CO2排出量の大幅な削減は難しい」と述べ、この法案を批判している*3。
*3:https://www.klimareporter.de/deutschland/klimapolitischer-totalausfall
ドイツの気候学者モジブ・ラティフ氏も、「今回の政府の提案は、私が予想していた内容に比べると、はるかに実効性に欠ける。学校の試験にたとえれば、零点だ。我々はこれまで何十年も気候保護を無視してきたのだから、将来気候変動がさらに深刻化することを防ぐには、一刻も早く行動に移らなくてはならない。ドイツ政府が発表したような提案では、CO2削減目標を達成することは到底できないだろう」と厳しい口調でメルケル政権の提案を批判した*4。
*4:https://www.tagesschau.de/inland/reaktionen-klimapaket-bundesregierung-101.html
緑の党もCO2価格の大幅な引き上げを要求
また野党・緑の党も「政府の提案には失望した。メルケル政権は歴史的な機会を逃した」という声明を発表。同党の執行部は、燃料などにかけられているエネルギー税にCO2税(炭素税)を追加して、1トンあたりのCO2価格を直ちに40ユーロに設定し、2021年にCO2価格を60ユーロに引き上げて年々増加させることを提案した。これは政府が提案している2021年のCO2価格の6倍だ。
また同党は政府が提案している、脱石炭つまり褐炭・石炭火力発電所の全廃の時期を2038年から2030年に早めることや、灯油による暖房設備の即時禁止も提案。さらに緑の党は、2030年以降、電気自動車(EV)以外の車の認可を禁止することや、ドイツの自動車業界に対して、EVの最低比率を法律によって義務付けることを求めている。
緑の党は燃料高騰による市民の負担を軽減するために、「エネルギー補助金」として市民全員に毎年100ユーロ(1万2,000円)を還元することを提案している*5。
政府が提案するCO2価格と緑の党の提案の比較ドイツのメディアにリークされた緑の党の提案内容から、筆者が作成。
https://www.zeit.de/politik/deutschland/2019-10/klimapolitik-gruene-antrag-parteitag-klimapaket-koalition-bundesrat
ソフト・ランディングの背景に景気の先行きへの懸念
つまりメルケル政権は、今回の気候保護法案の内容を、「企業や市民に過剰な痛みを与えない、ソフトでゆるやかなCO2削減計画」に留めた。これは「企業や市民がCO2排出について痛み(経済的な負担)を感じないと、削減効果はない」という学界や緑の党の主張と真っ向から対立する内容だ。確かに1リッターあたりのガソリン代が3セント(3.6円)上昇しても、多くのドライバーは内燃機関を使った車に乗るのをやめようとは思わないだろう。
なぜ政府はあえて「ソフトで痛みが少ない気候保護法案」に留めたのだろうか。その背景には、現在ドイツの産業界が経験しつつある、景気の悪化がある。
米国と中国、米国とEUの間の貿易摩擦や英国のEU離脱に関する不透明感、熟練したエンジニアなどの人材不足などによって、ドイツの第2四半期の国内総生産(GDP)は0.1%減り、景気後退の兆候が表れている。
今年(2019年)10月15日に国際通貨基金(IMF)が発表した世界経済見通し*6によると、ドイツの今年の成長率は0.5%と予測されている。これはユーロ圏平均(1.2%)の半分にも満たず、イタリア(0.0%)に次いでユーロ圏で2番目に低い水準となった。「欧州経済の優等生」とはとても呼べないパフォーマンスだ。
*6:https://www.imf.org/en/Publications/WEO/Issues/2019/10/01/world-economic-outlook-october-2019
ドイツ機械工業会(VDMA)によると、今年1月~8月の同国の機械メーカーの受注額は、前年同期に比べて9%減った*7。
この国のモノづくり産業の屋台骨は、自動車産業である。ドイツ自動車工業会(VDA)の統計は、この国の自動車メーカーの前途に黄信号が灯っていることを示している。
ドイツ企業が2018年に世界中で生産した車の数は前年比で0.7%減り、約1,636万台となった。国内生産台数は9.3%落ち込んだ。また去年の輸出台数も8.8%減少。特に欧州諸国向けの落ち込みが激しい(13.3%減少)。
今年に入ってからは、生産・輸出にさらにブレーキがかかっている。今年1月~9月までのドイツのメーカーの輸出台数は前年同期比で12%減り、生産台数も9%減った。
VDAは、「世界の自動車市場全体が減速している」と見ている。ドイツの自動車メーカーにとって気がかりなことは、同国が最も重視するドル箱市場・中国の収縮だ。中国市場での2018年の車の生産台数(ドイツ以外の国も含む)は、前年比で4.8%減った。VDAが10月16日に発表した速報値によると、今年1月~9月の中国での全世界のメーカーの車の販売台数は約1,496万台で、前年同期比で11.6%も減少した。
資料=ドイツ自動車工業会(VDAは速報の中で2019年度1月~9月の数字と変化率だけを発表しているので、2018年度1月~9月の数字は筆者が逆算した概数)https://www.vda.de/de/presse/Pressemeldungen/191002-deutscher-pkw-markt-legt-im-september-zu.html
https://www.vda.de/de/presse/Pressemeldungen/20191016-Europa-mit-deutlichen-Zuw-chsen.html
政府は、CO2削減が景気や雇用に悪影響を与えないように、あえて初年度のCO2価格を低く設定し、上昇率も遅くした。その背景には、景気の先行きへの懸念がある。メルケル政権は、地球温暖化を防止するために、ドイツ企業の国際競争力が弱まったり、失業者の数が増えたりするような事態は避けたい。「市民の理解が得られなくては、CO2の大幅削減は成功しない」と考えているのだ。
さて、今回発表された気候保護法案には、ドイツの再生可能エネルギー業界に衝撃を与える内容が含まれていた。次回はこの問題について詳しくお伝えしよう。