連載 気候変動問題を戦略的に考えよう(7)
気候変動対策をさらに推し進めるため、あらためて「経済的な手法」が注目されている。中でもEUで導入され定着している排出権取引制度は、日本でも導入すべきという意見が根強い。今回から数回にわたり、松尾直樹氏(公益財団法人地球環境戦略研究機関 上席研究員/シニアフェロー)が排出権取引制度について解説する。
今回から、数回にわたって、キャップアンドトレード型排出権取引制度に関する論考を行います。
キャップアンドトレード型排出権取引制度という名前はちょっと長いので、これからはETS (Emissions Trading Scheme)と呼ぶことにします。京都議定書もETSの一種ですが、ここでは国内制度としてのETSを対象とします(EU ETSも含みます)。
ETSは、日本では誤解されることが多い政策措置です。政府委員会での議論においても、かなり一方的な、結論ありきの主張を述べ合うだけのケースが多いようです。この政策措置を好む/好まない、もしくは日本に適す/適さない、という価値判断は、きちんとした共通理解の上で行うべきだと思います。この論考のシリーズは、その役に立つことを願っています。
ETSのことをご存じの人は多いとは思いますが、「なんとなく…」の理解は誤解の元ですので、ここで整理をしてみましょう。というのも、私が見るところ、用語の概念やその使用方法が間違っているケースも散見されますので。
ETSという制度は、次のステップで特徴付けられます。
ときどき、ETSのことを排出量取引もしくは排出枠取引という言い方がされますが、取引されるものは「1トン分の排出許可証」であって、物理的な排出量や、排出目標(枠)ではありません。したがって、わたしは「排出権」取引という言葉を用いています。権利的なニュアンスを嫌う人は、「排出券」という用語がいいでしょう。チケットといった感じですね。
② が存在しない(規制対象に排出目標が設定されない)ETSもあります。この場合、排出権は規制主体が市場に(通常は何度かに分けて)競争入札という形で供給します。規制対象はそれを応札するわけですね。その場合でも、① と ③ は必要です。競争入札から始まるので、オークション方式と呼ばれることが多いようです(ちなみに ② が行われる無償割当方式でも、もちろん市場取引は行われ、それはオークションという形態をとります。勘違いしないようにしたいですね)。
なおETSは、最近は「カーボンプライシング」というカテゴリーのなかで、炭素税とひとくくりで論じられることも多いようです。ただ、炭素税(もしくは炭素課税)とは、政策措置としての方法論や性格がかなり異なりますので、ここではETSに特化した議論をして、炭素税やその他の政策措置は、「対比」させる対象としてのみ扱うこととします。
この制度を特徴付けるのは、なんと言っても「取引」の存在です。
日本人は環境規制的なルールは、きちんと自分で達成すべき、という感覚が強いようです。有害物質排出に対する規制の場合には、その地域の環境容量制約がありますので、その考え方は正しいのですが、温室効果ガス(GHG)はいわゆる有害物質ではありません。したがって、「環境面」で意味を持つのは、その「総排出量」のみになり、個々の主体の排出量はどれだけでもいいはずです。したがって、メンタル的な気持ち悪さ(?)を除けば、排出権の取引は、環境面で悪影響はないはずです。
ちょっと見方を変えて考えてみましょう。
「取引」ができるということは、「分業」を意味します。自分の食材をすべて自分でつくっている人はほとんどいないと思います。ほかの人(農家という専門家)が作ったものを買ってくるわけですね。通勤に公共交通を使っている人は、その移動というサービスを買っているわけです。どうして自分で行わないのでしょう? 食材などは自分の健康や命に関わるものであるにもかかわらず…。
これは、自分で行うより、ずっと低コストで、ずっと上手に行ってくれる人がいるので、その商品やサービスを「買う」ことで、そのメリットを享受しているわけです。言い方は悪いですが、「お金で解決」しているわけです。「分業」という表現をしましたが、これは「経済活動」そのもののことです。社会を動かしているのが「経済」のメカニズムであることは自明のことですね。そして、その経済を上手く機能させるためには、何らかの「ルール」が必要になります。
もうおわかりになったと思いますが、「食材を調達する」「会社まで移動する」などと同列のものとして、「GHG排出量を一定水準に抑える」という環境目的を考えるのが、ETSなのです。ETSでは、より低コストで上手にGHGを削減できる人や専門家が、それを行って、それをサービスとして他者に提供することを認める制度です。それによって、社会全体のコストは少なくて済むことになりますね。
通常の環境規制は、このような「経済のメカニズム」の「外」で達成することが求められてきましたが、より効果的=より強力な対策が求められるような問題には、この社会を動かしている「経済」というメカニズム=ビジネスのメカニズムを活かした削減を狙おう、というものが、ETSなのです。
ETSをビジネスのプラットフォームだと理解するなら、主なプレーヤーは、
の2つのカテゴリーに大別することができます。
「供給者」にとっては、新しい(エネルギー関連の)商品が発生し、その市場も用意されるわけですので、自分の(おそらく別分野の)ノウハウを応用して、排出権販売を可能とするビジネスを始めたり、既存ビジネスのサービスの一部(ひとつの付加価値)として組み込んだりすることでしょう。グリーン電力証書やJ-クレジットなどの類似の証書はありますので、とくに目新しくはないかもしれません。エネルギー以外の分野からの参入も見込めるかもしれませんね。
「需要家」にとっては、ETSは、(たとえ排出目標が設定されたとしても)お金を出せば、事実上無制限に排出できる制度であることを意味します。排出権調達を織り込んでおけば、GHG面の制約は事実上ないといえるかもしれません。製造業の場合、原材料を購入しますが、それらは市況によって価格が変化します(安く調達するのもノウハウですね)。ETSが導入されれば、その原材料の中に、排出権も加わることになります。それが環境制約下のビジネスのあり方になります。価格変動や為替変動など、(あまり好ましくはないかもしれませんが)いつもノーマルビジネスで対処していることですね。それがひとつ増えるだけです。
みなさんは、ご自分の会社は、どちらに属するとお考えですか? ひょっとしたら両方に属する場合もありますね。
あなたは需要家ですか、供給者ですか。
ETSは、上記のように「ビジネスの側面」を最大化しようとする手法ですが、当然、それ以前に「環境」規制でもあります。
ときどきETSで排出量は削減したのか? というような疑問を呈する人がいますが、ETSの環境面は、「キャップ」のレベル「のみ」で決定されます。当然ながら削減するようにキャップを設定するのでしょうから、その意味で、ETSでGHG削減は行われます。
そのときに、(そのキャップレベルでの)排出削減の限界コストが、排出権価格という形で表されることになります。その排出権価格が、かなり低い水準で推移したなら、たとえキャップはキープされたとしても、価格効果による削減はほとんどなかった…と言えるでしょう。そうであるなら、あまりETSが機能しなかったということができそうです。それでも、この限界コスト情報は、非常に貴重な情報として、次の期に活かすことができますね。
もちろん、キャップがキープされるというのは、各排出主体が、ETSのルール③を遵守するということを前提にしています。遵守できなければ意味がありません。ただ、ETSは「各主体が遵守しやすくする」制度です。言い換えると、ETSで遵守できないのなら、他の手法ではとうてい遵守できないでしょう。遵守しやすくする…というのは下記のようなことを意味します。
今後、かなり厳しい排出削減が社会的に要求されるようになった場合、この (b) の側面は非常に重要だと思います。
通常は、ETSのデザインは、上記の ①→②のようにデザインします。すなわち、キャップが環境面の要求事項として、先に設定されるわけです。
言い換えると、なにか既存の別の方法で決まった(あるセクター等に対する)「排出の責任分や排出目標」があったなら、その全体をキャップに、そのブレークダウンを割当とすれば、そのままETSを導入できるわけですね。
ETSに反対する人達は、ETSが追加的規制となることを嫌がるわけですが、追加的「柔軟性」となるなら、反対する理由はないはずです。わたし個人としては、日本ではこのアプローチではじめることがベストだと思っています。そして、経験を重ねることで、よりこの手法の活用方法に習熟し、有効に活用できるようになるでしょう。
もちろん、ETSにはいくつか課題もあります。割当の方法論、市場が近視眼的であること、市場の不完全性、市場価格の異常な振る舞い、そして適切な排出権価格にならないこと、オークション収入の使途などです。
これらの点に関しては、また次回以降、議論をしていきたいと思います。
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