連載 気候変動問題を戦略的に考えよう(8)
気候変動対策をさらに推し進めるため、あらためて「経済的な手法」が注目されている。中でもEUで導入され定着している排出権取引制度は、日本でも導入すべきという意見が根強い。前回に引き続き、松尾直樹氏(公益財団法人地球環境戦略研究機関 上席研究員/シニアフェロー)が排出権取引制度について解説する。
前回は、キャップアンドトレード型排出権取引制度(Emissions Trading Scheme : ETS)がどのような政策措置か? という点を、「取引」という特徴と、「キャップ」という特徴の二つの側面からみてみました。
具体的な事例ではなく、その背景にある考え方や狙いどころ、といった点からの解説でした。詳しくは、前回をご覧になっていただければと思いますが、ここで簡単にエッセンスをおさらいいたしましょう。
ETSは、制度としては、① 排出総枠(キャップ)の設定、② 排出目標(各主体への割当)設定、③ 実排出量分の排出権を期末に所有していることが要請される、という3点で規定されます。そしてもちろん、その排出権は売買(取引)が可能となるところに、最大の特長があります。
排出権は、キャップ分だけしか発行されません(それが各主体に割り当てされます)し、各主体は持っている排出権分しか排出できないわけですから、環境規制としての側面は、キャップの大きさのみによって規定され、それ以上の排出ができない仕組みになっています。
各主体は、排出権の取引を通じて、排出削減活動の「分業」を行い、ビジネスとして上手に削減できる主体が、たくさん削減を行って儲け、削減コストの高い主体は自社削減の代わりに排出権購入という新しくより低コストの方法が利用可能となるわけです。
もともと、ものの売買は、売る方も得で買う方も得になるから行うものですが、ETSはその原理を、GHG(温室効果ガス)排出削減(より正確にはGHG排出量を一定の枠の中に抑える)のために利用しようとするものです。そして、その「枠(キャップ)」は、達成が(原理的には)担保されます。
本当は、このETSの真価は、目標達成が厳しくなってきたときに、排出権価格が上昇し、それによって新しい削減が追加的に行われることになり、自動的に(市場メカニズムで)排出量がキャップの中に抑えられるというメカニズムなのですが、現実世界のETSでは、キャップ水準が比較的低く設定され、むしろ排出権価格低迷が懸念事項となったケースが多いようです。
排出権の売買の制度設計をどうするか?一般に、GHG排出削減を狙う政策措置をデザインする場合には、(a)GHG排出削減効果(b)経済効率性(c)公平性、という3つの配慮事項の「自由度」があります。
もうひとつ「(d)GHG排出削減以外の便益」という配慮事項を考えることもできますが、これはすこし異質な性格のものなのでここでは考えないとします(この3つの配慮事項に従属すると考えることができます)。
この(a)~(c)は、異なった=互いに独立した概念に基づくものであると考えることができます。理系の人なら、「直交した」という表現が分かりやすいかもしれません。その意味でも「自由度」という表現は、当を得たものといえるでしょう。政策措置をデザインする場合、それを意識するかどうかはともかく、この3つの配慮事項を、どう制度の中に表現するか? という点が重要になります。
ETSという政策措置に関しては、非常に興味深いこととして、この3つの配慮事項が、制度デザインにおいて、分離した形で表現されます。
すなわち、制度デザインの要素として(a)GHG排出削減効果 ← キャップレベル(b)経済効率性(の最大化) ← 取引ができるということ(c)公平性 ← 割当方法
という形で、表現されることになります。
すなわち、狙い所をクリアな形で個別に制度デザインすることができることになります((a)~(c)が混ざることがありません)。
ちょっとわかりにくいかもしれないので、対比するために、(カーボンプライシング政策手法の一種である)炭素税を考えてみましょう。
この場合、(a)GHG排出削減効果 ← 炭素税率(b)経済効率性(の最大化) ← 税率が炭素含有量に比例するということ(c)公平性 ← ?、であるわけですが、もうすこしよくみてみましょう。
炭素税率が、「GHG排出削減効果」に直接関係することはわかりやすいですね(結果としての排出削減効果は、(ETSとは異なって)事後にしか分かりませんが)。
経済学の教えるところでは、一様の炭素税率が課せられた場合、「経済効率性」が最大化されます(限界コストが炭素税率までの対策が実施されるという意味で、対策コストは最小になります。ETSでは取引可能性がその役割を果たします)。
それでは、「公平性」は制度設計においてどう表現されるのでしょうか? 頭の体操としてすこし考えてみてください。誰もが、化石燃料消費において、同じ炭素税率を支払う必要がある…ということでしょうか? ん? これは経済効率性を表現しているはずですね。
よく考えてみると、公平性という概念には、ユニークな判断基準があるわけではないことに気がつきます。何が公平か? という点は、人によって考え方が異なっているわけですね(公平性には結果の公平性とプロセスの公平性という異なった公平性の概念がありますが、ここでは前者を考えます)。
割当方式のETSの場合には、それが「割当方法」という形で制度設計上表現されるのですが、割当方法にも多様なものがあり得ます。
炭素税の場合には、実は公平性は、「税率格差(課税セクター間格差と燃料種別間格差があります)」と「税収の使途」という2点で表現されることになります。とくにエネルギー多消費産業への配慮という公平性への配慮ですね。
このような「配慮」を行うと、全体のGHG排出削減効果が下がってしまうとともに、経済効率性も悪化します。すなわち、炭素税の場合には3つの配慮事項を同時に満たすことは難しいわけです。その理由は、公平性への配慮のために一律の炭素税率を設定することが難しいという点にあります。配慮事項と制度設計の要素が、混ざってしまうために起きると言い換えることもできます。
一方、ETSの場合には、前述のような形で、3つの配慮事項が、それぞれ異なった制度設計要素に対応していますので、その問題は生じません。(あまり指摘されているのをみたことはありませんが)おなじカーボンプライシング手法でありながら、この点は大きな差異として認識されるべきでしょう。
言い換えると、炭素税においても「(エネルギー多消費産業に対する)配慮」が不要な場合には、そのメリットを十分に活かすことができます。たとえば、中小企業、業務部門、家庭部門、交通部門などを対象とするようなケースになります。
なお、ETSでは「公平性」への配慮は割当をどのように行うか? という点で表現されると言いましたが、所期割当のないオークション方式のETSの場合、「公平性」への配慮は、制度設計的にはどこに表現されているのでしょうか? これも制度設計論の頭の体操にはうってつけですので、いちど考えてみてください。ヒントは、炭素税との類似性にあります。
いままで、とくに「経済効率性」という点で、経済理論的な前提をおいて議論しました。一種の理念的経済社会を想定したわけです。
すなわち、
といった前提を置いたわけです。
現実世界では、これらはどれも正しくありません。言い換えると、前述のETSのメリットは、現実世界ではかなり歪められることになります。
ただ、これは次のように解釈すべきでしょう。
現実世界をできるだけこの理念的状況に近づけることで、ETSのメリットをより大きく具現化できる
(1)の点は、短いタイムスケールでは、排出権市場価格が異常な振る舞いをしないようなメカニズムを導入することで回避できるでしょうし、中長期的には、将来のキャップ水準が明確化されることでの将来予見性を高めることで、ずいぶん緩和できるでしょう。
(2)と(3)の点は、まさに省エネ法の理念である「エネルギーの合理的利用」と、それを可能にするためのPDCAサイクルや能力開発プログラムなどで、緩和することができます。
(4)は、そのためのビジネス環境が整備されていることが求められるわけです。技術実証などへの補助制度なども有効でしょう。
これらの「追加措置」は、ETSに限らず、気候変動緩和政策措置を有効に機能させるためには、非常に重要なものとなります。
一方で、述べてこなかった重要な点として、「技術革新」、「技術開発」という点があります。実は、ETSは「技術普及」には大きく寄与できるでしょうが、「革新/開発」といった点に関しては、苦手と言えると思います。
この点に関しては、また次回、議論してみたいと思います。
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